ツタンカーメン

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ツタンカーメンの黄金のマスク
ツタンカーメンの王墓=KV62
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ツタンカーメンの ヒエログリフ表記

ツタンカーメン紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃、在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)は、古代エジプト第18王朝ファラオ(王)。より厳密な表記ではトゥトアンクアメン(Tut-ankh-amen)という。

目次

人物

生まれについては、はっきりしておらず、アメンホテプ3世の子、スメンクカーラーの子と諸説あるが、アメンホテプ4世(アクエンアテン)と側室キヤの間の子という説が有力である。アクエンアテンの生存中、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(アトン神の生ける似姿)と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(アモン神の生ける似姿)と改名した。また、首都をアマルナからテーベに戻した。在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる(但し、アイは王族の一人)。

ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。2005年1月に、ミイラの調査が行われた。

ツタンカーメンの墓

王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月26日イギリスカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けなかった(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。

その発掘は世界を大いに驚かせた。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたとされ、ファラオの呪いの伝説が広まっている。だが、実際に不遇に死んだ関係者は少数であり、更にその多くがこじつけといえるようなものであったため、呪いの話はロンドン・タイムズに報道を独占させたカーナヴォン卿に恨みを抱いたマスコミの創作に過ぎないとされている(死亡した発掘関係者の多くは高齢者であった)。

また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから暗殺説を裏付けるものと注目されたが、いくつかの傷は20世紀前半当時のミイラを文化財として大事にしない風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっている。

ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されている。 またツタンカーメンの墓には出産直後か死産かと見られる子供のミイラも一緒に葬られており、これはツタンカーメンの子供だと考えられている。

その他、ツタンカーメンの墓からはエンドウ豆も発見されている。これは三千年の年を経ても発芽させる事が出来た事からそこから収穫された「直系の種」が英国を通じて日本に分配された事もあり、90年代に入ってから読売新聞を通して一般に存在を公開、配布された事もあった。現在ではこの種は業者によって一般に向け販売されている。

ツタンカーメンのミイラ

ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の樹脂が化学反応によって変質したため保存状態はかなり劣悪であった。しかも、発見後、ミイラの包帯が解かれてしまった事も保存状態の悪化に拍車をかける事となった。包帯を解く際にも、多くの外傷がミイラに付けられ、さらには脊椎が切断され性器までもが消失した。

2005年1月、CTスキャン撮影などによってミイラの調査が行われ、棺からミイラが取り出されたが、この時の貴重なミイラの映像は国際的に注目された。調査により死亡推定年齢が19歳であることが明らかになった。身長は165㎝で体格もかなりの華奢であることがわかった(ツタンカーメンの身長は古代エジプトの成人男性の平均身長とほぼ同じであった)。しかし、死因については死につながる傷が発見及び特定されたものの、事故死説か他殺説かの論争に決着をつける事まではできなかった。なお、この調査の際に前述の消失していた性器が、無事に再発見されている。

この調査は、ミイラの保存状態が極めて劣悪になっており、従来どおり棺内での保存ではミイラの状態維持は出来ないと結論付けられた。その結果、2007年11月、初めてミイラが一般公開された。王墓内の黄金の石棺から、同じく王墓内に設けられた気温や湿度を厳重に調整できるプレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中に移され、保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された。その後、現在もミイラはプレクシグラス製ケース内にて保存されている。

ツタンカーメン他殺説

ツタンカーメンの死因は特定されていないが、大腿骨の骨折から数日で死亡したことが確認されている。戦争中の戦死、軍事訓練の際の事故に伴うものである可能性もあるが、政治的に不安定な時期であったため、骨折の原因となった出来事が「事故」だったと推測することも可能である。その場合の容疑者として挙げられることが多いのは以下の三名である。ただし全ては推測の範囲に過ぎない。

容疑者

頭部打撃説

かつては後頭部に強い打撃を受けて命を落としたとされていたが、根拠となっていたのは1962年のX線写真のみであった。頭蓋骨の中に骨片が写っていたことからこの説が生まれたのである。ファラオの呪いの噂の流布、また政治的な問題などから長らくミイラを再検査する機会が来なかったが、2005年にCTスキャンによって詳細に解析した結果、もし死の前に骨片があったなら脳とともに処理されているはずであること、骨片が樹脂の中に埋まっていたことなどから、骨片はミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論付けられた。頭部打撃による暗殺説は現在では否定されている。

骨折からの感染症説

頭部打撃による死亡を否定したのと同じCTスキャンによって浮上した新たな説が、左足の大腿骨骨折による敗血症である。ミイラ作りの際に出来たとは考えにくい、骨を縦に割る骨折跡があり、わずかな治癒痕から骨折後数日は生存していたと分かるため、死ぬ数日前に皮膚を突き破ってしまうほどの骨折をしていたと推測される。またCTスキャンから、左足の足首にはギプスを思わせる硬い物質がはめ込まれたままミイラにされており、何らかの事故に巻き込まれたとする可能性が考えられている。太い大腿骨を縦に割るには強い力が必要であり、同様の骨折痕は現代ではバイク事故などで多く見られるため、戦車から落ちたのではないかとする説が有力視されている。

政略的暗殺説

毒殺説も唱えられていた。ワインは当時、王や貴族といった地位のある層しか飲むことの出来ない貴重なものであり、実際にツタンカーメンの墓にもワイン壷が収められていた。ただしこの説は一般的なものではなく、明確な根拠も無い。

文献

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


先代:
スメンクカーラー
古代エジプト王
133代
前1333年 - 前1324年
次代:
ケプルケプルゥラー (アイ)


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