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歴史晋の成立周の成王が弟の虞と庭の木の枝を使って「これを以てお前を封じよう。」と封建の儀式の真似事をして遊んでいた。成王が宮殿に帰ると宰相の尹佚から「虞殿をどこへ封じましょうか?」と問われた。成王は驚いて、「私はあれと遊んでいただけだ。」と答えるが宰相は「『天子に戯言無し』です。王の発した言葉は覆す事はできないのです。」と答えた。ちょうどその頃周公旦が唐を征伐して帰ってきたので、虞を唐に封じ、唐叔虞とした。虞の子燮のときに汾水の支流である晋水にちなんで国名を晋とした。 内紛と覇者文公十一代昭侯の時に、侯の叔父の成師が曲沃を与えられて分家し、死後桓叔と呼ばれた。桓叔は善政を行ったので曲沃は栄え、首都よりも大きくなった。その後、翼の本家と曲沃との間で争いが続き、武公の時代に翼の湣侯を滅ぼし、主家に取って代わった。 武公の子の献公の時代に驪姫(りき)の乱が起きる。献公の寵姫である驪姫が自らの息子を跡継ぎにしようと画策したため、太子である申生(しんせい)は自殺を強いられ、公子の重耳と夷吾は国外に逃亡した。驪姫の息子以外の公子はほとんど殺され、また驪姫も息子と共に反対派に殺された。その後、諸国を放浪していた重耳が戻り晋公(文公)となると、周室の内乱を治めたり、城濮の戦い(紀元前632年)で楚を破るなど強大になって覇者となり、天下を経営した。 しかしながら、内紛で公族の数が激減し、他国と比べて公族の力が弱体化していた。景公、厲公の時に側近政治が試みられ、狄を滅ぼし、鄢陵の戦い(紀元前575年)の勝利などで権威を維持したが、厲公の強引さが反発を生んで殺害され(紀元前573年)、悼公が周から迎えられた時には臣下に対して決定的な力を持たなくなった。悼公自身は名君だったので初めは目立たなかったが、晋の公室は、大夫達の力のバランスに乗って力を維持する存在になっていった。頃公の時に晋の公族から分かれた祁氏や羊舌氏を滅ぼすことによって、六卿が決定的な力を持つようになった。 韓・魏・趙の独立と晋の滅亡春秋末期、晋は事実上、他の有力大夫を排除して六卿を世襲するようになっていた、范氏・智氏・中行氏・趙氏・韓氏・魏氏の5氏6家系(中行氏と智氏は、元々同じ荀氏。また、韓氏のみ公族)の当主によって動かされるようになった。さらに出公のときに范氏、中行氏の領地を智、趙、韓、魏氏が分割しようとしたため、出公は怒り、斉や魯と同盟して四氏を討とうとしたが失敗し、斉へ亡命しようとしてその途中で亡くなる事となった為に(紀元前457年)、晋室は全く力を失った。四氏のうち、智氏が最も強大で当主の智瑶は韓氏・魏氏を引き連れて、趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主趙無恤は、韓氏の韓虎・魏氏の魏駒に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ。」と寝返りを示唆し、これに成功する。三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙、韓、魏の三者が分け合い、それぞれ独立した。これは紀元前453年の出来事であり、この年と、周の威烈王によって趙、韓、魏の三氏が諸侯に列せられた紀元前403年のいずれかを春秋時代と戦国時代の区分と考えるのが一般的である。いずれにせよ、晋の公室と三家はこの時点で君臣関係ですらなくなったのである。紀元前378年、最後の君主静公が退位を迫られ、晋は滅亡した。なお、趙、魏、韓の三カ国を晋の後継者と見なし三晋と呼ぶ場合がある。 政治・軍制晋は三軍を持ち、それぞれの将軍・副将は卿が就任する。この6人の大臣を六卿と呼んだ。一軍の兵員数は12,500である。
という序列となる。中上下をあわせて三軍といい、周の制度下において大国が持てる最大の軍であった。一時期、新たに三軍を作り六軍としたことがあったが、すぐに元に戻った。中軍の将に就くということは、卿の筆頭である正卿(宰相)になることと同義である(正卿と中軍の将が同義と言うわけではない。) 晋の歴代君主曲沃 |
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