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梁(りょう、502年 - 557年)は中国の南北朝時代に江南に存在した王朝。
概要と歴史斉の宗族である蕭衍が斉の和帝より禅譲を受けて設立した。武帝は創業当初の天監年間は九品中正法を改善し、仏教を奨励する事で国内は治まり、文化が栄えた。31歳の若さで亡くなった武帝の長男である皇太子の蕭統(昭明太子)が編纂した『文選』などがよく知られている。しかし、50年近くに及ぶ治世の後半になると仏教を狂信するようになり、自らの身を三宝の奴として同泰寺に捧げる捨身という無謀な行動を再三にわたって行った。退位後の法皇的な身分ならいざ知らず、在世中の皇帝を失うようなことは有り得ない事であり、百官はその都度、多額の金銭を仏寺に施与することによって武帝の身を購った。 548年に東魏の降将・侯景が反乱を起こし翌年549年に首都建康の宮城が落とされ、最後は、たった1人で都の台城(宮城)にとり残され食物もほとんど与えられず監禁された後、武帝は衰弱死した。各地に分封されていた宗室の諸王たちは、兄弟や叔姪である互いの利を見て牽制しあった結果、全く帝の救出に動こうとせず、武帝は見殺しにされてしまったのである。 侯景は皇帝を名乗り、建康で即位したが、蕭繹に滅ぼされた。蕭繹は荒廃した建康を避けて江陵で即位した。ここで梁は東と西に分裂した。既に国内は割拠状態になっており、領土の多くを北朝に奪われ、元帝自身も西魏の遠征軍に敗死した。 元帝の配下であった陳霸先は自らが擁立した東の梁の敬帝から禅譲を受けて陳を建てた。 襄陽にあった蕭詧(武帝の孫、昭明太子の子)は、西魏の手で江陵において位に就けられ、後梁の宣帝となった。もちろん、傀儡政権であるが、後主・蕭琮に至るまで3代にわたって続き、陳が隋に併合された後に廃された。 梁の皇帝
後梁参考文献 |
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