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楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将。鎌倉幕府からは(悪党)とよばれた。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。恩賞方・武者所・記録所寄人・雑訴決断所奉行、和泉守護。贈正一位(1880年)。尊氏反抗後新政の軍事主体の主力の一方になり、最後まで勤王をつらぬく。足利尊氏の軍と戦い湊川で自害。明治以降「大楠公」と称される。父は系図により楠木正遠あるいは正玄、正澄、正康、俊親などと伝え、はっきりしていない。
楠木氏の出自楠木氏は、伊予国の伊予橘氏(越智氏)の橘遠保の末裔という。しかし、正成以前の系図は諸家で一致せず、後世の創作と見られる。河内には楠木姓の由来となるような地名はなく、北条得宗家被官の一族で、得宗領の河内へ移ってきたとする説、武蔵国(関東地方)の出身であるとする説などがある。また、秦氏の系統の説もある。 昭和37年(1962年)に三重県上野市の旧家から『上嶋家文書』(江戸時代末期の写本)[1]が発見された。 生涯河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の出生とする。生年に関しての確実な史料[2]は存在せず、正成の前半生はほとんど不明で、日本史上きわめて有名でありながら出自がこれほど謎に包まれた人物はほかにいないといわれる。様々な歴史家による懸命な研究努力にも拘らず、正成が確かな実像として捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどに過ぎない。 元弘元年(1331年)臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として史料に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の水銀などの流通ルートで活動する「悪党」とよばれる豪族であったと考えられている。また、この時既に官職を帯びていることから、これ以前に朝廷に仕え、後醍醐天皇もしくはその周囲の人物達と接触を持っていたと思われる。 この年に後醍醐天皇の挙兵を聞くと下赤坂城にて挙兵し、湯浅定仏と戦う(赤坂城の戦い)。後醍醐と正成を結びつけたのは、伊賀兼光、あるいは真言密教の僧である文観と思われる。後醍醐が隠岐島に流罪となっている間にも、大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦する。 元弘3年 / 正慶2年(1333年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。後醍醐天皇が京へ凱旋する際、兵庫まで出迎え、同道警護についた。 後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となる。建武の新政においては正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて「三木一草」と併称され、「朝恩に誇った」とされる(太平記の記述)。建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したと見られることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。 建武2年(1335年)の中先代の乱を討伐に向かった尊氏がそのまま新政に離反し、尊氏追討の命を受けた義貞が箱根・竹ノ下の戦いに敗北して足利軍が京へ迫るが、北畠顕家らと連絡して足利方を京より駆逐する。 延元元年 / 建武3年(1336年)、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが容認されず、次善の策として、一旦天皇の京都からの撤退を進言するがこれも却下される。絶望的な状況下で義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で足利直義の軍と戦い敗れて、弟の楠木正季と刺し違えたとされる。法名は霊光寺大圓義龍卍堂。 正成の息子である小楠公こと楠木正行を筆頭に、楠木正時、楠木正儀らも正成と同じく南朝方について戦った。 正成の妻は、夫・正成、長男・正行らの死後、戦乱の中、河内(甘南備村)を離れ、美濃乃国伊自良村長滝釜ヶ谷奥の院に隠棲。奥の院には、それを祀る甘南備神社がある。地域の尊信を得て、河内乃国甘南備の字名、長滝、平井、掛、松尾等々を与える。その墓は伊自良湖の登り口、長滝七社神社境内横にある。 後世の処遇と影響南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でさえも同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためであろう。 今日でいうゲリラ戦的戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井(由比)正雪も南木流軍学を講じていた。 佩刀であったと伝承される小竜景光(東京国立博物館蔵)は、山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となった。明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされる。 湊川討死まで足利軍と十六度合戦があり、後半においては足利尊氏は楠木正成の和睦(投降)を願い無理攻めを控えたが楠木軍の殉節を知り自害までの時間を与えた。という説も有り(NHK「その時歴史は動いた」ではこの説を引用)。また、明治維新後政府は南朝忠臣の子孫を探したが、楠木正成の子孫(学術的な根拠のある子孫)だけは遂に出てこなかった。 現在新潟県に、直系の子孫と言われる家系が存在している。名字は南と言う。 死後の楠木正成永禄2年(1559年)、正成の子孫と称した楠木正虎が献金により朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて朝敵でなくなる。また江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、忠臣として見直された。 江戸時代後期には尊皇家によって頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがてのちの湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えることとなる。 明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると大楠公と呼ばれ、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義の為に逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られる。 戦後は価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。 軍歌「桜井の決別」楠木正成と息子正行との決別を歌った歌で、1899年(明治32年)6月に発表された。作詞落合直文、作曲奥山朝恭。 国学者で一高教授だった落合は、学校生徒行軍歌「湊川」の第一篇に「桜井決別」として発表した。作曲の奥山朝恭は岡山師範学校の教師。 墓所・霊廟・史跡
脚註
関連項目
登場作品平成3年に放映された。原作は、吉川英治『私本太平記』 参考文献
以下は絶版品切れ
外部リンク |
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