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范曄 (はん よう、398年 - 445年)は、宋の政治家、歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は順陽(現河南省淅川)の出身であり、山陰(現浙江省紹興)にて生まれる。
略歴范曄は士族の家に生まれた。祖先の范晷は西晋の雍州の刺史だった。曾祖父の范汪は東晋に仕え、安北将軍にまでなり、徐兗2州の刺史、武興県侯を封爵した。祖父の范寧は臨淮太守、豫章太守に任ぜられた。父の范泰は中書侍郎に任ぜられたが、桓玄が政権を握った時に廃された。曾祖父の范汪は「博覧強記にして、道理に通じていた」とされ、『尚書大事』20巻、『範東陽方』105巻などを編纂している。祖父の范寧は『春秋榖梁傳集解』12巻を著し、「其の義は精審にして、世所の重さを為す」とある。父の范泰の著作にも『古今善言』24巻がある。 范曄は名門の生まれであったが、しかし本人は妾の生んだ庶子。范曄の母は彼を便所の中で生んだ時に彼の額を打撲して、小さな「磚」の字の形の痣を作ったと伝えられている。420年、劉裕が晋に代わって皇帝に即位し、国号を宋とした。その年、范曄は劉裕の子の劉義恭を冠軍へ入れる。以後10数年のうちに、尚書外兵郎、荊州別駕從事史、秘書監、新蔡太守,司徒從事中郎、尚書吏部郎等の職を歴任した。しかし性格が傲慢なため、いつも左遷されていた。 宋の文帝の元嘉9年(432年)、范曄は「宣城太守に左遷され、思いどおりにならず、そこで衆家『後漢書』を編纂して一家の作と為す」,ことで歴史学の名著を書いた。 文帝の弟の彭城王劉義康は長期にわたり政権を握ったため、文帝の疑いを受けた。元嘉17年(440年)、文帝は「合黨連群,陰謀潛計」の罪名で誅殺し、腹心の十数人を流罪とし、劉義康を江州刺史に左遷した。劉義康は失敗に甘んじず、謀反の準備をし范曄を丸め込むように動いた。最初、范曄は仲間に加わりたくなかったが、結局は劉義康の一味に入った。この年の11月に謀反の計画が発覚、誰かが文帝に范曄がクーデターの主謀者だと密告した。元嘉22年(445年)、范曄は48歳の時に謀反の罪で自身を含む一家全員が処刑された。 原典訳に、福井重雅編 『中国古代の歴史家たちー司馬遷・班固・范曄・陳寿の列伝訳注』早稲田大学出版部、2006年がある。 無神論范曄は無神論者だった。『後漢書』の中で、彼は人に諂う仏を猛烈に非難した。仏教をおかしいと思い、特に神が不滅であるという説と因果応報の説法を潔しとしなかった。そして仏教を信じる後漢の桓帝 (漢)にきつく風刺を行った。范曄は天命論にも反対し「天道の性命、聖人の難言之、況して乃ち憶測を僅かに隠す、猖狂無妄之福、宗親の汚滅を、觖一切の功を以て哉!」彼はまた『後漢書』張衡伝の中で大量に、古代の予言書を引用して史実や論証を述べることに張衡が反対した話を収録した。同時にまた、范曄は陰陽の禁忌についての誤った論を論破した。 著作范曄の文章は、筆勢は奔放であり、言葉が美しく固まり精錬して、駢文の句法をよく備えており、「博して経史にかかわり、よい文章で、隷書、音律を分かっている。」の贊がある。
伝記資料
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